2007年2月11日
熊野古道
〔熊野御幸記を歩く〕

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0住吉大社朝沢社止止呂支比売神社(若松御所)大和川境王子跡
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方違神社仁徳天皇陵大仙公園石津神社大鳥大社等乃伎神社
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篠田王子跡
平松王子行宮跡→ゴールJR信太山駅→付録(葛の葉神社)
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今日は熊野御幸記・建仁元年10月6日の後鳥羽院と同じ行程、住吉〜平松を歩きます。
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本日のコースは
06年01月19日 住吉〜大鳥
06年02月09
日 大鳥〜和泉府中と、ダブっておりますので、よかったら参照下さい。
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今回はシリーズ二回目
1月14日第一回のゴール・住吉大社からの出発です。



住吉大社を抜け、裏門から南へ進みます。



おいとしぼし社
「おもかる石」と呼ばれる不可思議な石が三基あります。人々は願掛けをしたのち
石を持ち上げ、軽く感じれば「可 」、重く感じれば「否」であると伝えられています。
大歳社の境内にありますが、もともとは境内の外であつい信仰を集めていました。





若松宮・〔止止呂支比売命神社〕
御鎮座の年代は不詳でありますが、延喜式(西暦八百五年制定)の神社名帳に当神社名がみられます。
当時、境内松林の中に清らかな清水が湧く轟池にトドロキという橋が架かっており住吉大社の摂社として
奉斎されておりました。承久三年、後鳥羽上皇が行幸のおり、当神社境内地内に、行宮をお築てになった
ことより
若松神社又は若松宮と称し氏子の方々より「若松さん」としたしまれ氏神様として崇め奉られてお
ります。                                                         
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大和川を渡る





境王子跡



方違神社
当神社奉斎地は--「三国山こずえに住まふむささびの鳥まつがごとわれ待ち痩せむ」--と、
『万葉集』にも歌われているごとく、摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の三国の境界
なるが故に、“三国山”“三国の衢(ちまた)”また“三国丘”とも称され、奈良時代には僧行基
が此辻に伏屋を設け旅人の休憩に供したので、人馬往来の要衝であった。         0
又、平安時代には熊野詣の通過地点であったため熊野詣での人々は必ず当社へも参詣し0
旅の安全を祈ったという。この三国の境(ちなみに“堺”の地名はこれに由来する)で何処の
国にも属さない、又方位の無い清地であるという考え方に依りその境内の御土と菰の葉にて
作られた粽は、悪い方位を祓うという信仰を以て、古きより方災除の神として御神徳を仰ぐ参
詣者が全国より来られています。                                  
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大仙公園・大仙陵
1970年以前には、明治時代以降つけられた「仁徳天皇陵」という名称を使っていましたが
考古学研究者の中から「仁徳天皇陵」という古墳に入っている人が、実は仁徳天皇かどう
か分からないにもかかわらず、仁徳天皇と呼んでしまうと、誤解を生んでしまうので仁徳陵
と呼ばずに「仁徳陵古墳」と呼ぼうと提案がありました。そしてさらに1976年には、ふつうの
遺跡の命名法で、もともと呼ばれていた地名をとって「大山古墳」にしようという呼びかけが
ありました。この間・若干のタイムラグをおいて教科書の用語表記は追従し、変化しました
最近では、「大仙古墳」 「大仙陵古墳」という名称になりつつあります。           
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石津神社
日本最古の戎宮と称し、石津川の北岸、熊野街道沿いに鎮座。
石津川を渡る橋は「えびす橋」と名付けられています。





大鳥神社
景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社がありました。日本武尊は景行天皇の皇子であり、
天皇の命令で熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷を平定されました。この東夷平定の折、大鳥神社
に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の目の病の治らん事をお願いされたところ
首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って再び剣を持って働く事ができるようになったので
当社を盲神と称え、手近に持って居られた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。  
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この剣を天武雲剣と申し、大鳥神社の神宝となっています。






等乃伎神社




篠田王子跡



本日のゴール、平松王子。後鳥羽上皇の歌碑があります。
平松は まだ雲深く たちにけり あけゆく鐘は なにはあたりか(正治二年百首)



信太山駅で解散後、ひとつ大阪よりの「北信太」駅で下車
葛の葉伝説で有名な、葛葉稲荷神社へ お参りしました0
恋しくば たずね来てみよ 和泉なる しのだの森の 怨み くずの葉

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