いろいろの
田道間守
たじまもり伝説

歌は



簡単に
田道間守は、古代の伝説上の人物。新羅(しらぎ)王子天日矛(あめのひぼこ)の子孫。
第11代垂仁天皇は大和国纏向宮で国を治めていましたが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねました。この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国してきましたが、すでに垂仁天皇はその前年なくなっており、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしまいました。  田道間守の持ち帰った非時香菓は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」に至っています。



田道間守よる柑橘伝来説
十一代垂仁天皇の御代(西暦61年頃)新羅(しらぎ) の国から帰化した子孫,、田道間守は、病中の天皇の 命によっって、暖かい地に育つ果物、 非時香果(トキジクノカグノコノミ)を求めて旅に出ます。
 10年後、その果物「橘」を得て帰国しますが 帝はすでに亡くなられていたので, 田道間守は「橘」が育つ温暖な気候の土地を探し、 その土地に「橘」を植えました。熊野街道沿いの海草郡加茂村(現下津町橘本)が田道間守が「橘」を 植えた地ということで、田道間守は今も「橘本神社」にみかんの始祖として祀られています。

 ここで、もう一つ和歌山のみかんの伝来と 関係のある肥後の国八代の田道間守伝説がありますのでご紹介します。
田道間守は垂仁天皇の崩御を聞き、その皇子である 景行天皇に「橘」を献上しょうと、当時、都から九州へ 旅しておられた天皇を八代まで訪ね、高田村付近で 天皇とめぐり合い「橘」を献上しました。そして 景行天皇は高田の地にこの「橘」を植えられました。やがて、この橘が1574年伊藤孫衛門が紀州に持ち帰る小みかんであると言う伝説なのですが・・・・・

 田道間守が持ち帰った橘は、実は「ダイダイ・橙」であったとの説がある様です。「橘」は古くから西日本に自生しており、田道間守が十年の歳月をかけて探し求める事はなかったのではと、そう考えられているそうなのです。




さらに詳しく  〔木津の郷土史家、故井上正一 先生説〕
今から1800年ばかり前,垂仁天皇は大和纏向宮(桜井市)で、国を治められましたが、或る時重臣を集められて「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじくのかぐのみ)をさがしにいってくれる者はいないか」とお尋ねになりました。.(帝の命によって常世国に行き無事大役を果たすことの出来る者は、田道間守の他にはありますまい)と皆一致して田道間守を推薦しました。.

田道間守は当時但馬の国主でありましたが、その勢力は広く山陰、山陽にまで及び、その祖先(祖父の天日槍まで)は新羅(韓国)王家の出であるところから、諸藩も同家には特別の敬意を表しており、又政府も外交上の重要問題には、常に国家の使節として韓国や中国に派遣していたものと思われます。

非時香菓(ときじくのかぐのみ)を常世国に探させたのは、表面上のことで、何か日、韓、中三国の国交上に関する重大な使命があったものと考えられます。(1)常世国というのは、「わが国を遥かに隔たり離れて、たやすく往き帰りがたきところ)であると云われていますが,(2)それは今の南中国方面であって、香港又は広東あたりまで行ったのではないかと思われます。

現在のように遠洋航海に適した立派な船のなかった時代ですから、なるべく海路を避け、まず、近くの韓国に渡ってその都を訪ね、それより陸路中国をまわって国交上の使命を果たしつつ南下したのではないか(3)という説もあります。

さて田道間守が無事に大命を果たして帰国した時には、すでに十年の歳月がたっていました.帰国の時の報告には「私、天皇の命を受け、遠く異国に往き、万里の波涛を越え、遥かに弱水をわたって常世国に至りぬ。

この常世国は神仙の秘区にして能く俗人のいたり得るところにあらず、是を以って往来う間に自ら十年を経たり。

豈に再び峻瀾(高いけわしい波)を凌ぎて更に本土に向かわんということを期せんや、然るに聖帝の神霊に頼って僅かに還り来ることを得たり」と「日本記」という古書に出ております。

交通がまだ開けず、船の便のなかった当時、一命を小舟に託して果てしなく広い海洋に、荒れ狂う波涛と戦い大任を果たしたのでありますが、それにしても十年間もかかったことは余りに年月がかかりすぎている様に思われます。

非時香菓(ときじくのかぐのみ)とは(橘)ことであると言われますが、この橘の実を南中国方面から持ち帰るには、冬実ったものをとっても翌年の夏を越さなければ帰れぬ日程となり、それでは途中で腐敗するおそれがあります。

それで種子を持ちかって韓国(田道間守祖先の地)で栽培し、その実るのを待って持ち帰ったのではないか(註4)との説もあります。

とにかくこの様にして田道間守が帰国されたのは、景行天皇三月で,船の着いた港は丹後国箱石(久美浜町箱石)浜であり、橘の実が始めてわが国に到着した土地であるから,それ以後この土地を橘と言うようになった(註5)と言い伝えています。

田道間守はこの里の田神山(網野町木津下和田の女布谷にあり,屋船谷とも云う)に祭壇を設け,持って帰った橘の実を始め,非時香菓(ときじくのかぐのみ)や、その他の宝物を献げて、神に感謝と報告の式典を挙げられました。(6)これが現在下和田の売布神社になったと云われています。

田道間守は、それから陸路皇居の地に向かったのですが、垂仁天皇はその前年に140歳のご長寿で崩御されて、すでに第三皇子が即位されて景行天皇の御代になっていたのであります。田道間守は大変に悲しまれて、持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのみ)や、その他の宝物の半分を皇太后に奉り、残りを先帝の御陵にささげて「陛下の生前に持ち帰ることが出来ず、私の罪は正に死にあたいする。この先、生き永えていても何の役にもたたないと思うので、先帝のあとをしたって御供しましょう。」と言って自ら陵の前に穴をほって入り、天を仰いで悲しみ食をたって先帝に殉じました。(註7)

これを伝え聞いた重臣は、皆田道間守の至情に感じ涙を流さぬ者はなかったと言います。

.景行天皇はその忠誠をあわれみになり、先帝御陵の側に葬りました(8)

垂仁天皇の御陵は「菅原伏見東陵」と申しますが、その側にある陪塚、即ち田道間守を葬った墓の丘上には今でも橘の古木が青々と繁って、その忠誠をとこしえに伝えています。

(これらのお墓は現在近鉄橿原線尼け辻駅のすぐ西側にあります。.)

臣下の者で、御陵の陪塚として葬られた例は稀であります。また田道間守の兄弟の女である気永足(きながらたらひめのみこ)、仲哀天皇の皇后(神功皇后の母)に当たらせられることなど考え合わせると、但馬の田道間守家が皇室の御信任あつく、非時香菓とともに永く高く香ったかということがしられます。

明治天皇の御製に
たちばなの花をし見ればまきもくの珠城の宮ぞしのばれにける
まきもくの珠城の宮とは垂仁天皇のおられたところを云うのであって、御製の意味は、橘の花を見れば垂仁天皇の御事や、田道間守の忠節が思い出されるとの古事を思いおこされたものと拝察します。




増尾正子の「奈良の昔話」より
 天平二年(七二九年)光明皇后は、興福寺東金堂の南隣に五重塔の建立を発願され、その年の暮れに完成したと伝えられる。その後、何度か兵火にかかったりして焼失したが、その都度、篤い信仰心によって再建され、猿沢池から眺める五重塔は、古都奈良の象徴と言われてきた。
 その五重塔が思いがけぬ危機にひんしたのは明治初年のことであった。慶応三年(一八六七年)、徳川慶喜よりの大政奉還を受け、翌年、明治新政府が成立した。年号が明治に改まったのは慶応四年九月八日のことであるが、それに先だち、同年三月、祭政一致を目指す維新政府によって神仏分離令が発しられ、それまでの神仏混淆は禁じられた。春日大社と一体化していた興福寺では、お坊さんは皆還俗して神官となって春日大社に勤めることとなり、興福寺が無住となったことがあるそうだ。
 続いておこる廃仏毀釈の波で、堂塔は荒廃するし、明治四年(一八七一年)には寺領も没収されてしまい、中金堂は県庁舎、食堂は寧楽学校舎として利用されることになった。その頃、五重塔も取り払おうというので入札が行われ、十五両で落札された。解体のためには足場をかけなければならず、思ったより費用がかかるため、落札者は逃げてしまったそうだ。その後、五十円で買って、焼いて金具だけ取ろうとした人もあらわれたが、類焼をおそれた近所の人達の猛反対に会って焼くことが出来ず、おかげであの美しい塔が残ったという。この落札金額については、五円から二百五十円まで、さまざまな説があるが、いかに物価の安かった時代とはいえ、あの立派な塔がそんな値段で売買されようとしたなんて、ウソのような話だ。
いらかの波と雲の波/重なる波の中空を
橘かおる朝風に/高く泳ぐや鯉のぼり
 風薫る五月、この歌を聞くと、私は我が国にはじめて橘をもたらしたという、田道間守を思い出す。そして、美味しい蜜柑を食べると、非時香菓に思いを馳せて、往古は天皇様といえども、こんな蜜柑は召し上がれなかったのだなと想う。
 上古、第十一代の垂仁天皇は、池や水路を整備して農業を振興したり、はにわを作って殉死をやめさせる等、仁徳の高い天皇で、人々から敬慕されておられた。
 ある時、天皇は田道間守をお召しになって、「常世の国には、ときじくのかぐのこのみ(非時香菓)という珍しい果物があるということだ。その香は、えもいわれぬ程かぐわしく、不老不死の薬になると聞く。田道間守よ、お前に常世の国に行って、その木の実を採ってきてくれないか。」と仰せつけになった。日頃から天皇をお慕いしていた田道間守は、どんなに苦しいことがあっても、この実を探し求めて、天皇に長生きしていただこうと心に誓った。
 常世の国というのは、遥に海をへだてた遠い遠いところにあると、うわさに聞いていても、誰もまだ行ったという人はいない、幻の国のようなものだった。まして当時の航海は、風まかせ運まかせのような危険きわまりないものである。一大決心をして船出をした田道間守の船は襲いくる高波にのまれたり、潮に流されて逆もどりしたり、あちらこちらをさまよい、血のにじむような苦労を重ねた。やっと念願の木の実を手に入れて帰国したのは、出発から十年の後のことであった。
 その間、田道間守の帰りを今か今かと待っておられた天皇は、病におかされて崩御されてしまった。天皇に献上して喜んでいただこうと、意気揚々と帰国した田道間守を待ち受けていたのは、垂仁天皇の死という悲報であった。
 田道間守は悲しみにくれながら、持ち帰った非時香菓の半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残り半分を、天皇の御陵の前で捧げ持ち、「只今、命を受けました常世の国の非時香菓を、ここに持ち帰りました。」と涙で報告した。深い悲しみに、繰り返し繰り返し泣き叫びつつ、とうとう天皇の御陵の前で息たえてしまった。
 その様を見た人達は、みんな貰い泣きし、せめて天皇の側で、その霊をなぐさめようと、御陵のお濠の中に田道間守のお墓がつくられることになった。今も奈良市尼ケ辻町にある垂仁天皇陵のまわりの、まんまんと水をたたえたお濠の中に、ぽつんと船のようにうかんでいる小島が、田道間守のお墓だということだ。
 ときじくのかぐの木の実は、「田道間花」がつまって、「たちばな」になったのだろうと言われている。なにしろ日本に於ける柑橘類の元祖である。
 垂仁天皇は、三輪山の西北のふもと、穴師という所にあった纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)を皇居としておられたが、今は蜜柑畑のひろがる大和の蜜柑所となっている。
 穴師も尼ケ辻も奈良町からは少し離れているが、木の実は昔、菓子として扱われたところから、先に誌した林神社に菓祖神 田道間守命として、饅頭の祖 林浄因命と合祀されているので、この伝説も加えた。





囚われの神〔田道間守幻想〕
 記紀が垂仁天皇の条に記している田道間守(たじまもり)の物語は美談である。天皇に命じられて常世の国の「ときじくのかぐの木の実」を求めに行った田道間守が、その実を手に入れて帰朝した時、天皇はすでに亡くなっておられたので、天皇の陵にその実を捧げて後、その場で殉死したと云う話である。しかし、この話はどう考えても変である、議論よりも先に、それを実感させるものがある。田道間守の墓が、満々たる水をたたえた垂仁陵の周濠の中の小島であるという事実である。これは、囚われて幽閉された姿そのものではないのか。 
 古事記は田道間守の系譜を伝え、天の目矛の神の末裔であることを記している、彼は日矛(ひぼこ)の神を祖神と仰ぐ但馬の国の王である。大和は、その膨張政策の触手を但馬にのばし、謀略をもつて彼を捕らえて幽閉し殺害したが、その真相を隠蔽するために、逆に美談を作文したのではあるまいか。
 
 では、真実はどのように筋書きで展開したのであろうか。田道間守の弟の清彦が日矛の神の神宝を大和に献上する時に、「出石の刀子(いずしのかたな)」と呼ばれる神宝だけが姿を消して淡路島へ飛んで行ったという話を謎解きの鍵として、私は幻想の中に、一つのストーリーを浮かび上がらせた。
 
この作品は、云うなれば、私の歴史解釈を小説の形で述べたものである。それと共に、田道間守とその妻との間の、心と心との夫婦愛を描き出そうとしたものである。
 
 なお、作中の人物の名前は、記紀が記す所に従っているが、田道間守の妹の意富度美と、妻の湯津加牟豆美との二人の名前のみは、私の命名である。

 
掲載誌は、北河内文化誌「まんだ」第53号、54号(1994年11月、1995年3月)
 



   右近の橘・・・左近の桜
垂仁天皇陵の濠中に田道間守(多遅摩毛理、たじまもり)の塚がある。その田道間守は名の通り但馬の国辺りの実力者であったといわれる。
日本書紀によると、ある時
田道間守は、天皇から「常世の国(現在の韓国済州島と言われる)から橘(みかん)をもってくるよう」指示を受けた。
苦難の末やっと常世の国から帰って来たが、天皇は死んでいた。その悲しみのあまりタジマモリは天皇陵の側で死んでしまう。人々は、これを悼み、天皇陵の側に橘の木を植えたという。御所に植えられる「右近の橘」はこの故事に因ります。
京都御所平安神宮で見られる左近の桜・右近の橘は、正面から見たら右側に橘・左側に桜と逆に配置されています。これは、玉座から天皇が見られた左右の位置が正式な配置だからです。